考察キッチン

KOUSATSU-KITCHEN

【ゴールデンカムイ考察】『蜘蛛の糸』と地獄の境目

※漫画『ゴールデンカムイ』の考察記事であり当該作のネタバレを多分に含みます。
※記事内の引用出典における『第○話』『○話』という表記は、漫画『ゴールデンカムイ』における話数を示しています。

天上におわす存在から送られてきたたった一つの「助かる手段」を巡って、大勢が群がり、争いが起きる。

漫画『ゴールデンカムイ』と、芥川龍之介蜘蛛の糸の共通項である。


『蜘蛛の糸』で「助かる手段」を齎したのは「お釈迦様」だった。

 

蜘蛛の糸』は何故降ろされた?

 

お釈迦様が極楽の池から地獄を見ていると、そこにいるカンダタという男に気が付き……彼が「生前に蜘蛛を殺さず見逃したこと」を思い出す。お釈迦様は、その善行に報いてやろうと、地獄から脱出させる手段として「蜘蛛の糸」を極楽から地獄へと降ろしてやる……。

蜘蛛の糸』の前半の流れはこんな具合だが、この、「お釈迦様がカンダタを助けてやろうと考えた理由」。これが、『ゴールデンカムイ』に頻出するテーマにやたら通じているのである。

ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。
そこで■(かん)陀多*1は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
━『蜘蛛の糸芥川龍之介

「命を奪うときに、罪悪感が生じるか?」ということ。
そして「その自らに沸いた罪悪感を無視しないか?」ということ。
たったそれだけだが、『蜘蛛の糸』に出てくるお釈迦様はそういう情と行動を報いるに値する「善い事」と呼んでいる。


それと同じ論点。

ゴールデンカムイ』の金塊を探るストーリーラインのそばには、「罪悪感」が常にテーマとしてあった。

 

 

罪悪感の宣告

 

「罪悪感」という言葉に振り回された『ゴールデンカムイ』の登場人物。その中でもトップクラスに印象深いのは『尾形百之助』かもしれない。

彼は主人公である杉元・アシリパ一行、囚人のリーダーである土方一行、更に第七師団の鶴見一行……と3勢力ともと行動し、とても長いスパンの中で人間性や言動を描かれた上で、最期、自らの中にある「罪悪感」に気がついたことで自死してしまう

勇作と重なるアシリパが俺に罪悪感を気づかせた
アシリパは俺に光を与えて俺は殺される

やめろッ
罪悪感など存在しない!!

ああ…でも 良かったなぁ
━第310話「祝福」

尾形は「罪悪感があること」を「愛情のある親が交わってできた人間である証」として捉えていた。
故に、死ぬ前に「良かったなぁ」と、故郷の情景とともに、一人だった少年期の百之助が報われたような笑みを見せる。
この場面での尾形の瞳は四角く描かれているものと丸く描かれているものがあるが、精神世界に没入していくにつれ……「罪悪感」について明確に解説し、認識している尾形は全員が「丸い瞳」になっていく。少年期の尾形も、丸い瞳。
この丸い瞳の自分を、右目を、尾形は撃ち抜くのだ。
罪悪感を明確に感じた自分だからこそ、死を選ぶ。たったひとり愛してくれた、自分が殺してしまった「勇作殿」の鮮明な幻影に……罪人である自分を殺してもらう。

確か、この少し前。308話で、尾形は「強い奴を倒すときは頭を狙わない」とアシリパの教えを反芻していた。そして最期、頭を撃ち抜いて自死した。

「強い奴の倒し方」を、自分には使わなかったのだ。

あの時の尾形に、そこまで回る思考は残っていなかっただろうが……。
自分に「罪悪」を感じた人間は、強くいられないのだ、きっと。
何故なら、「自らを裁きたい」という思いを拭えないからだ。

 

 

松田平太の鮮明な亡霊

 

杉元たちに砂白金について教えた「平太師匠」、松田平太も罪悪感によって疲弊し、潰された一人だった。
彼は、自分の家族をヒグマに殺させた罪をずっと忘れられず、その罪悪感から家族が今も生きているかのような幻影を見ていたし、自分を裁きにくる「ウェンカムイ」の恐怖に取り憑かれていた。

近づいてきた砂金堀りたちを殺し、ひとり利益を得ていた平太は行動だけを追うと強欲で冷酷な人間に思える。一方で、杉元と戦いつつ自らアマッポ(毒矢の罠)に掛かって命を終えた平太は臆病で良心を持っている風である。

人を殺めることを恐れ、殺人を続けてしまう自分を誰かに止めて欲しがっていた


平太を助けるよう白石がアシリパに頼んでも、「いいんです このままで」と彼は死ぬことを選ぶ。
自分を、裁かれるべき人間と思っていたからだ。

砂金に目がくらんだ欲深くて醜いあいつらにバチを与えて欲しかった
━第221話「ヒグマ男」

家族を悪と考え、「ウェンカムイからバチを与えて欲しい」と念じていた妄想が、言葉が、そのまま自分に返ってきたわけだ。砂金に目がくらみ、家族をヒグマに襲わせて独り占めした欲深い自分に。

そうでなけれは信仰と辻褄が合わない

「悪はウェンカムイに罰せられる」という彼の信仰が…ウェンカムイを創り上げた。信じているから、「罰」の存在を「無い」とは思えなかった。……そうして、その中に入り込んで取り憑かれるほど、イメージが鮮明になってしまったのだ。

「自らの信仰と辻褄が合うか」という問題を語るなら、関谷輪一郎もそうである。

 

 

関谷輪一郎の辻褄合わせ

 

関谷輪一郎は「運試し」の名目で人に毒を飲ませ続けた男だが、彼から身の上話を聞いた門倉(網走監獄の元看守)は「関谷自身の信仰と現実のズレ」が行動の起点ではないかと推測している。

キリシタンであった関谷は、娘が偶然にも雷に打たれて死んだことで、「神の意志」に疑問を持った。

どうして娘が選ばれたのか…
どうして俺じゃなかったのか
「運」とは神の意志なのか…
俺のような人間を生き残らせるということは神など存在しないのではないか?
━第175話「繭」

関谷は自らを「俺のような人間」と称し、罰せられるべき対象だと考え、その自分が生き残っていることを「神の存在の対する反証」としていた。

だが一方で、土方が奇跡的に生き残り、自分が運悪く死のうというとき「やはり神はいた」と確信めいた叫びをあげる。

そう… まさに奇跡
やはり神はいた
そう思うだろ?土方さん
神は……ようやく俺に裁きを与えやがった
━第176話「それぞれの神様」

……正直な話。「関谷が運悪く死ぬ」ということがあったからといって、それは「神がいる証明」にはならない。確率論で言えば、運良く生きることも運悪く死ぬことも、平等に在る筈だからだ。

だが関谷は「神はいた」と断言した
「存在しないのでは」と言いながら、信仰を前提に思考していたのだ。

信仰を前提にすれば、「娘の死」は神の意志であり、関谷が感じた苦しみは「何かの罪」に対する罰となる。
「罰を受けた」という結果から逆算することで、関谷の中で、関谷が罪人であることが確定する。
故に……関谷は人を殺し、「罪人」になったのではないか。そういった内容を、第176話で門倉が語っている。「自分の信仰心と娘の理不尽な死に折り合いをつけよう」としたのだと……。

松田平太は自らの「罪」に対する「罰」が在る筈だと、
関谷輪一郎は「罰」が在るのなら自らに「罪」が在る筈だと、

「信仰」と「現実」のズレを埋めようと、辻褄が合うよう……自ら”それ”を創り上げてしまった


同じことが、尾形百之助にも起きていたと言える。

 

 

尾形百之助の罪

俺は欠けた人間なんかじゃなくて
欠けた人間にふさわしい道を選んできたのでは?
━第310話「祝福」 より引用

尾形は、自分の今までの人生を「欠けた人間にふさわしい道を選んできた」と表現している。

それがどういう事であるのか、関谷輪一郎の行動と合わせると理解できる。

反証にみせかけた信仰との辻褄合わせ』だ。
関谷が、「罰に相応しい凶悪な罪人である自分」を創り上げることで、「神は存在する」「神は悪に罰を与える」という信仰と辻褄を合わせたのと一緒で、

尾形は、「罪悪感を持たない欠けた人間」を創り上げることで「愛には価値があるはずだ」という信仰と辻褄を合わせた。

「愛のない両親から生まれた子は欠けた人間になる」という理論がそれだ。


本当に「愛」に価値も意味もないと考えるなら、それが有ろうが無かろうが、「自分が罪悪感を持たない人間であること」とは何の関連性もないという論になるはずである。
だが、罪悪感に気がついたとき、尾形は「愛情のある親が交わってできた人間ってことか?」と即座に結びつけた。


尾形は愛を欲していた。欲しがっていた時点で”それ”に価値を感じていたのだ。だから、「愛に価値があること」を前提に思考してしまう。

関谷にとっての「神の存在」が、尾形にとっての「愛の価値」なのだ。

愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが
━第103話「あんこう鍋」 より引用

自分では存在を確認できないけれど、在って欲しい。在るはずだ。

自分では存在を確認できないけれど、それにはとてつもなく価値がある。
運命を創り、揺るがすほどの。

尾形は「愛の価値」を信仰していた。


だから、「得られなかった愛には価値などなかった」と反証しようとする自分の言動に、実は、傷ついていた筈だ。誰よりも自分が。

「神はいる」と信仰するものが「神などいない」と言われたら、傷つくものだ。
やがて罪悪感に気がつき、彼の信仰は守られた。
「自分は愛されて生まれたし、その愛に価値はあるのだ」と納得することで……。

同時に、「勇作殿」の幻影が流していた血は綺麗に消えて、傷一つなくなる。
信仰を傷つける必要はもうないのだ。


血を流すべきは、裁かれるべきは、「自分の信仰」ではなく「自分」だからだ。

 

尾形百之助の神


関谷いわく、神は悪に裁きを与えるものだ。
松田平太も「ウェンカムイ」という神から、罰を下されると考えていた。

関谷も松田もそれぞれの神を信仰していたが、その神が「見えていたか」という部分では大きく違う。

松田は、幻影によって「神」を鮮明に見て、存在を強く感じていた。そして、それに取り憑かれて自らに「裁き」を与えていた。「人を殺した罰に、さらに人を殺してしまうようになる」……アイヌの言い伝えを自己流に解釈した信仰に沿って、繰り返し再現をしていた。

幻影を見始めてからの尾形に起こったことは、それと同じである。

尾形は、関谷輪一郎のごとく「信仰を否定する自分」を作り上げてきて……
松田平太のごとく、自らの罪を幻影に見て、自らの「神」の幻影より罰を与えてもらったのだ。


この文脈でいくと、尾形にとっての「神」とは「勇作」である。

賑やかにすれば神はより早く来てくれる
━第164話「悪兆」 より引用

尾形が体調を崩した際も、「勇作」は”来てくれた”。164話「悪兆」でのことである。口シアの狙撃手をやっとのことで倒した尾形が、雪を食べすぎて身体を壊したとき。「勇作」は、「寒くありませんか?兄様」と気遣う声も掛けてくれた。
「唯一愛してくれた存在」だからだ。心配してくれる振る舞いが、鮮明にイメージできる。

同話にて、ウイルタたちが患者たちの為に太鼓を叩き(病を治してくれる)神を呼ぶと、勇作は身をかがめて尾形に顔を寄せる。頭と頭がぶつかっているのではないかという、距離の近さである。

音楽は霊的なものであり「無意識」に深く影響する
患者に取り憑いている「なにか」との因果をあきらかにするんだ…
━第164話「悪兆」 より引用

キロランケの直前の言葉を借りれば……。
あの「極端に近い距離」が、尾形の「罰してくれる神」が「勇作」である因果の表れ、なのかもしれない。

 



距離と情


杉元とアシリパが出会ってまもない頃、杉元が小熊を拾って可愛がる流れ(11話〜)があったと思う。その時にアシリパが言っているのだが。

でも別れる寂しさはどうしようもない
だから私は決して情が移らないように距離を置くんだ
━第12話「カムイモシリ」 より引用

可愛がりすぎると、距離が近すぎると、例え自分たちの行いが「信仰に従った正しい事」だと認識していても「別れる寂しさ」が出てきてしまう、という話だ。「情が湧いてしまう」という防ぎようのない心の動きについて。

アシリパは、小熊と距離をとるキッカケを「私には昔 弟みたいに世話をした小熊がいた」と語り出したが……。

尾形の場合、それが、「実際に弟と呼べる存在」で、自分のことを「兄様」と呼んで屈託なく懐いてきた「勇作」だったのだ。

尾形は勇作を味方につけよう、たらしこもうと企んでいたし、その目的の為に勇作が求めるような兄らしい振る舞いで「世話をした」かもしれない。

小熊に近づきすぎたアシリパと一緒で……尾形は勇作に対し「距離を置き損ねた」のだと思う。

友愛なのか、兄弟愛なのか……その中身の精査は置いておこう。
ともかく距離の近さは「愛」となり「情」となり、相手を「失い難い存在」へと変える。
そして「失い難い存在」は、その程度によっては、殺人に踏み込む「道理」にすらなり得るのだ。

<鶴見>
兵士の攻撃性を引き出す原動力となんもんは
敵兵への憎しみではねく 恐怖でもねく 政治思想の違いでもねぇ…
<先生>
それはなんら?
<鶴見>
「愛」です
━第227話「共犯」 より引用

鶴見の言葉は真理だったのだ。
対人不殺を貫いていたアシリパでさえ、杉元の為、尾形へ毒矢を射った。

いちばん大切な人まで失いたくない
━第311話「アシリパの選択」 より引用

「失い難い存在」だったからだ。
もしも、尾形が杉元を殺していたら……アシリパは、尾形に対し憎しみを持ってしまったかもしれない。

では……もしも、「失い難い存在」を、自分が殺してしまったら、どうだろうか?
アシリパが、杉元を殺してしまったとしたら……。

尾形の陥った事態とは、”それ”だ。


まして尾形が「勇作」を殺した理由は、作戦として命じられたことでもなく。勇作自身に頼まれたことでもない。環境や他者のせいにもできない。自らの信仰上で正しい事でもなんでもない……ばかりか、愛が欲しかった尾形を唯一愛してくれた存在の、期待と信頼を裏切る行為である。

自らを納得させる相応の「道理」がないまま、尾形は、情の湧いた弟の脳天を撃ち抜いたのだ。

その罪悪感に突如気がついてしまった。
罪を認識する者は、それに相応な罰も「在るべき」と感じるものである。それが罪悪感だ。
「弟の愛」を裏切り、脳天を撃ち抜いた百之助は、「弟の愛」によって脳天を撃ち抜かれ、罰せられて堕ちていった。

 

 

罪悪感を無視すると


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、「命を奪おうという時に生じた罪悪感を、無視しなかった」ということが「善い事」と呼ばれている。

カンダタは、「善い事」をした報いに地獄から抜け出す救いの手……「蜘蛛の糸」を与えられるが、結局のところその糸も途絶えて地獄の闇に堕ちていってしまう。

その原因と目されるのが、糸が切れる直前にカンダタが叫んだ言葉なのだが……

そこで■(かん)陀多は大きな声を出して、
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
と喚きました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に■(かん)陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。
━『蜘蛛の糸芥川龍之介 より引用

ゴールデンカムイ』の罪悪感の解釈を当てはめると、カンダタは「心の狭さ」や「強欲さ」から罰せられたわけではない。

カンダタ自身に、「命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そう」という罪悪感が存在したこと自体が、問題の焦点になる。

蜘蛛を助けた時に、「見逃せる命を見逃す事」のは善い事で、そうしないことは悪い事だ、という価値観を自覚してしまったから……。

それなのに、彼は自らの罪悪感を無視し、罪人たちの「助かりたい」という必死の行動をいつかの蜘蛛のように「見逃してやらなかった」から。

自分の価値観の中で言う「悪い事」をしてしまったのだ……カンダタは。お釈迦様が判断することではない。だから、彼は知らぬ間に、「自分の価値観」に罰せられてしまった。

そういうことになる。


救いの糸を垂らすのは


本編上で登場した「蜘蛛」といえば、アレがある。

尾形はキロランケと組んで俺と
のっぺらぼうを撃った
いつの間にコイツらが組んでたのかはわからないんだけどな
違う! 蜘蛛じゃない
━第203話「似顔絵」 より引用

杉元たちに「頭巾ちゃん」と呼ばれていたヴァシリと杉元が初めて会って、尾形に自分とのっぺらぼうが撃たれたことを絵で描いて説明する場面。

杉元は説明上は「俺とのっぺらぼう」と言うが、書いたのは自分の絵だけだった。
しかたない、のっぺらぼうは顔がないから、似顔絵は描けない。
だが、杉元の絵をみてヴァシリが「蜘蛛の絵」を描くのだ。そしてそれを杉元と並べる。
杉元が「違う!(その絵は自分であって)蜘蛛じゃない!」と言うが、蜘蛛じゃないのは杉元であって、「のっぺらぼう」が蜘蛛じゃないとは言っていない。

まあ、ヴァシリにも杉元にも、そんな気はなかろうが……「運」とは神の意志なのか、と言う言葉も出てくるくらいだ。これにも意味があるかもしれない。


意味があるとするなら……のっぺらぼうは確かに、『ゴールデンカムイ』の物語の大きなうねりに置いて、「救いの糸を垂らす蜘蛛」にふさわしい。

軍事政権を築く、国をつくる、手術費用を賄う、故郷を守る、……。
鶴見中尉も、土方歳三も、杉元もアシリパも……金塊の使い道はそれぞれ違うが、誰もが「金塊を手に入れる事」を足掛かりとして、
「このままでは不可能な幸せ」に踏み入れるつもりだった。

ゴールデンカムイ』の物語の主軸である、「金塊を手段とした幸せ」を目指す人々にとっての「救いの蜘蛛の糸」はやはり、金塊だ。

ならば、その糸を「道筋」として地獄まで垂らしにきた蜘蛛は、「のっぺらぼう」に相違ない。

そして、『蜘蛛の糸』のごとく、罪人たちは一本の救済に群がった。

ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、
まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。
━『蜘蛛の糸芥川龍之介 より引用

蜘蛛の糸』では、カンダタが足蹴にした罪人たちは「蟻」に例えられていた。
蟻といえば、杉元佐一が第1話で「すっぱい」と言いながら食べていた存在である。腹が減ったから、生きるために。そして杉元は、蟻だけでなく敵兵にもかじりついてやると言っていた。

杉元は「地獄行きの特等席」とことあるごとに言っていたが、……彼は、最初から地獄にいたのだ。
地獄で生きるには、カンダタのままではいられない。カンダタには罪悪感がある。
だから別人になる。

道理があれば……「必要ならば鬼になる覚悟」でそうしたのだと、第39話「ニシン漁と殺人鬼」でも語っている。


例え自分の価値観がそれを悪と見做しても、生きる為にはやるしかない


そして戦場から帰ってきた杉元は、地獄を知らないアシリパとであった。


アシリパは杉元に、地上での生き抜き方を教えた。
戦争での、いくら「道理」があっても「罪悪」を麻痺させなければならないような、「鬼」にならねばならないような命のやりとりではなくて、獲物と、自分と、自然全てを尊重する「生きる営み」に溶け込む「命」に対する姿勢だ。

鹿の体温がお前にうつってお前を生かす
私達や動物たちが肉を食べ
残りは木や草や大地の
生命に置き換わる
鹿が生き抜いた価値は消えたりしない
━第24話「生き抜いた価値」 より引用

 

全て鹿が生きた証だ
全部食べて全部忘れるな!!
それが獲物に対する責任の取り方だ
━第25話「ユク」 より引用


やがて戦争で変わってしまった自分を含めて、「役目を果たすため頑張った」と、価値を感じ……
前向きに、自己肯定できるようになる。

杉元は昔のようには戻らなかったが、戦場で落ちた地獄からは、抜け出せたのだ。
「自分の罪悪感を無視したまま地獄に落ちるカンダタ」に成り切ってしまう前に。




杉元はアシリパに、地獄での生き抜き方を語った。

俺は殺人狂じゃない……でも
殺されるくらいなら躊躇せず殺す
弱い奴は食われる
どこの世界もそれは同じだろう?
━第5話「北鎮部隊」 より引用

 

俺はそう思うようにしてきた…
戦争の時もロスケは
俺たち日本人とは違って苦しまずに死ぬんだって……
戦場では自分を壊して別の人間にならないと戦えない
俺たちはそうでもしなきゃ生き残れなかったんだ
━100話「大雪山」 より引用


そしてアシリパは、自然な命の営みを超えた、命のやりとりを知った。
理不尽で残酷な、それでいて「それぞれの道理」を守る為に散っていく命。
仲間たちも大切になった途端に失った。
みんなは死に、自分は生き残る。

不死身の杉元が戦場で見てきた景色だ。

情を抱くと失いがたくなってしまう。
だが、仲間にはどうしても情をもってしまう。

仲間が死ぬたびにアシリパの頭が液体のようになる演出があったが……

あれは自分の一部になってしまった仲間への情が千切れて痛んでいるのだと思う。

そして極め付け、鶴見中尉に最悪の置き土産をもらう。

愛するものはゴールデンカムイにみんな殺される
全部お前の責任だぞ ウイルク!!
━第313話「終着」 より引用

鶴見のあの言葉は本音だったのかもしれないし、意図があったのかもしれない。
これより前、アシリパとソフィアと対面して「ゴールデンカムイ」について語っていたときは「全てがウイルクのせいとは思わない」と語っていた。あれと、最後の言葉と。どちらが本当なのか……。

杉元の胸に刀を刺してからアシリパに聞かせていたから、杉元の死を「罪悪感」としてアシリパの負い目にすることで、「金塊」や「金塊によって生まれた権利書」を使うことを躊躇わせようとしたのかもしれない、……と、意図の推測はできる。
もしも鶴見中尉が生き残ったなら……そういう流れも有り得ただろう。


結果、杉元は生き残ったが。

「いちばん大切なひと」とまで言った存在が、失われたかもという恐怖。それが父ウイルクと結びついた「黄金のカムイのせい」なのだという、強烈で理不尽な罪悪感。それを感じていた時間が。あったはずだ、アシリパには。
……鶴見の言葉は、アシリパの精神に”そういうもの”を植え付けた呪いになってしまったように思う。



ゴールデンカムイ』の文脈では、「罪悪感」は募りすぎると人を弱らせ、死に向かわせかねない危険なもの……。罰を与えようとしてくるもの。

鶴見中尉が名乗っていた「死神」という言葉が、相応しいだろうか。


アイヌを守っていくのに黄金のカムイは必要ない
それが私が選んだ答えだ
━314話「大団円」 より引用

最終回でアシリパが、黄金のカムイを「必要ない」と言ったのは事実だろう。
だが、どうも最終回のアシリパはそれまでの屈託の無さが足りていない。

これを「大人っぽくなった」と解釈する場合もあると思うし、実際彼女は自らの責任を果たそうとすることで「大人」になったのだろう。

だがアシリパには……、
「情を持った仲間が次々先に死んで行ってしまう」という「杉元が過去に通ってきた苦しみ」を経験したことで、自身の言葉と矛盾した行動をとってしまった……という事実がある。
彼女は、ことあるごとに「アシリパを問題と無関係の安全地帯に置いていこうとする杉元」に不満をもっていて……206話「ふたりの距離」では、「相棒なら”するな”と言うな、”一緒にやろう”と言え」といった主張していたはずだ。
だが、最後の最後鶴見中尉を追おうというとき「私の問題」だからと杉元を置いていこうとした……。
杉元と似た経験をすることで、杉元の心情を追体験し、結果、同じような心理を持ってしまったということだ。

そして、「一番大切な人まで失いたくない」という言葉を受けて、杉元は咄嗟に「梅ちゃんと虎次と自分」の関係を想起する(311話)。

杉元は梅ちゃんが大切だから、「自分のせいで梅ちゃんが死ぬ」のが怖かった。それを彼は「梅ちゃんを殺したくない」と表現した。(6話「迫害」)
梅ちゃんの意思を粗末に扱いたかったわけでは決してなくて、ただ怖かったのだ。
だから、同じように大切で信用のおける虎次のそばに置いていった。

それと同じだ、と。

「過去の自分と同じような心理」に、今アシリパが在るんだと、察した訳だ。


そして杉元は、その過去の心理から救い出してくれたアシリパの言動」をなぞることでアシリパを救う。


置いていく相手に無理やりついてつき、「相棒」を宣言することで。


過去に「アシリパを問題と無関係の安全地帯に置いていこうとした杉元」を批判するとき、彼女は「子供扱いするな」と怒っていたが……単なる大人と子供という区別が杉元とアシリパの距離ではなかったことが、あの流れで明確になる。


自分の目的のために敵が死に、仲間が死んでいくという「地獄」を見ることで、抗いがたい「罪悪感」に苛まれ、大切な人ほど遠ざけようという気持ちが生まれてしまう。

「本当は一緒にいたい」という気持ちを抑えて、離れようとしてしまう
それが相手の幸せなると。
そういう発想がどうしても生まれてしまう。


それを経験しているか、否か。
それが2人の距離だった。


罪悪感を無視すると、人は自分の価値観に捌かれる。
だが、どうしても罪悪感の境目を踏み越えなくてはならない「道理」が……「道理」を守らねばならない地獄というのが、この世にはあって。
それを通り「罪悪感」に対処できなくなった人間は、「自分の幸せ」に近づくことを無意識に恐れるようになってしまう。


そしてそれを救えるのは、力強く「これが自分の望みだ」と言いながら、心に寄り添ってくれる誰かの生き方なのだ。


アシリパ「避けられない罪悪感」を知ることで、「杉元の生きてきた道」に近づき
杉元は「生き抜いた価値」を感じることが「罪悪感と向き合い対処する方法」なのだと学び、アシリパの生きてきた道」に近づいた

アシリパは杉元の「罪悪感」を追体験している。だから今度は、杉元がアシリパの教えを伝え返す、逆の立場になったのだ。


アシリパは、「一緒にいたい」という気持ちを抑え込むようになってしまった杉元に、自ら「一緒に」と言い続けた。
最終回では杉元が、「一緒にいたい」と言えないアシリパに、自ら「故郷へ帰ろう」と言う。

アシリパは、アイヌの信仰に対する現実的な解釈を語り、信仰に対する知識が盲信的な偏りを持たないように伝えてきた。
最終回では、杉元がアシリパ「黄金のカムイは使う奴によって役目が変わる」と現実的な解釈を語る


鶴見中尉の「呪いの言葉」は、アシリパに「罪悪感」を植え付けたかもしれない。それを無視することは、アシリパにはできないだろう。
罪悪感は、無視しようとしても、できないものだ。
ゴールデンカムイ』の物語が、そう語っている。

だから向き合わねばならないし、最終回のアシリパは神妙さには、そういう「重さ」が含まれている。
自分と自分の大切なものの為、責任を果たす「大人っぽさ」の表れもあるだろうけれども。

でもやっぱり、「罪悪感を抱え込むこと」と「責任を果たすこと」は全く別の話だ。そうアシリパも言っていた筈だ。
「懸命に生きた証を忘れないこと」が獲物に対する責任の取り方だと。(25話「ユク」)

その教えを胸に刻み、物語を経て……自分の生き方を肯定し望みをはっきりと口にした杉元の明るさが、その証左にもなると思う。


……そういえば、結局。

「金塊」は権利書に変わった半分しか使われなかったわけだから、『蜘蛛の糸』を通して読めば、
糸を半分登って、極楽はまだ遥か上空、地獄と地上の境目に着地したというところになるだろうか。

きっと今度はアシリパが、地獄を生き抜いた杉元に手を引いてもらう番なのだろう。



脱獄王


最後に。
白石は海賊房太郎の「シライシも帰る故郷が無いなら作ったらいい(259話)」という助言を参考にし、「出世しろよ」という約束を叶えて「脱獄王」から「王様」に出世した訳だが……。

<房太郎>
あー… しくじったぜ
助けたんだから 俺のこと忘れるなよシライシ
お前の子どもたちに伝えろ…
「お前らが今この世に存在しているのは 海賊房太郎こと大沢房太郎のおかげだぞ」ってな
<白石>
………ああ
<房太郎>
出世しろよ テメー
脱獄王で終わるんじゃねえぞ
<白石>
わかったよ ボウタロウ
わかった
━第263話「海賊房太郎こと大沢房太郎」 より引用

国をつくるとか、故郷を背負って守るというのが皆の目指していたものと思い返すと。
つまりは『蜘蛛の糸』における「極楽」は、『ゴールデンカムイ』でいえば、

「自分の国を持って平和に暮らす!」ということになる。

つまり白石がそれに、皆が目指していた「極楽」に、糸を伝って辿り着いちゃったのである。


まあそれも当然かもしれない。

まずもって、『蜘蛛の糸』においてカンダタが地獄の底に落ち、脱出失敗してしまった原因は……他の罪人たちを足蹴にしたことだった。
そうなのだが、そもそも。
「どうして足蹴にしなければならなかったか」と言う話をすると、これ。


白石ならこう指摘するだろう。


「皆にバレるようなタイミングでやるからでしょ」
と。

白石は一番大事な脱獄の心得として、

脱獄はひとりで実行すること
━第84話「獄中」 より引用

というのをきっちり語っている。

つまり、皆にバレてしまったせいで、後から後からついて来られてしまったわけで。
皆にバレないようにこ〜〜っそり実行すれば、争いも起きなかったし、喚いて他者を足蹴にする必要もなかったんじゃないの?、という話だ。

俺がこ〜〜〜っそり運ぶなら、アシリパちゃんの懸念したような殺し合いにはならないし。
房太郎との約束も守れる。
日本中で顔を知られて何処に行っても投獄されてしまう自分も、逃げ回る必要がなくなる。
帰れる「故郷」を作れる。

そんな気持ちだろうか?

確か白石は……
杉元に隠し事をした罪悪感から焦り、逃げたことで死にかけた
あの時の白石は全く冷静ではなかったと思う。
に逃げるのが鉄則と言っていたのに、真昼間に、外に誰がいるかも確認せず宿を脱出してしまったし。

助けに来てくれたキロランケの手も取れなかった。

第七師団に捕まれば皮が剥がれるのもちゃんと知っていた(初期に杉元から警告を受けている)筈なのに……杉元と顔を合わせられないから、手をとれなかった。

どんな監獄からも逃げられる白石ですら、罪悪感からは逃げられなかった

白石視点からすると、土方勢に対しては……辺見和雄の刺青もでたらめのものを渡し、持っている暗号の情報も流していなかった。実質としては、杉元を裏切っているわけではなかった筈だ。

それでも焦ったのは、隠し事をしていたからだ。

お前……
土方と内通してたのか?
ずっと土方にこっちの情報を流していたんだろ……
━第90話「芸術家」 より引用

白石は、実際に内通していた負い目によって焦ったのではなく、杉元に内通していたと思われることが怖かった

その裏切りが杉元にとって重大だと思うからこそ、白石は「殺される」までの想像をしてしまった。罪を罰せられる想像をした


ここに、白石の罪悪感の境目がある。

仲間に「信頼を裏切られた」と感じさせてしまうこと、だ。


だからそうならないよう、「裏切られた」と感じさせない隙間を縫って、

国づくりなんて大層なことをやってしまった訳である。


そして、ただ一人、極楽へ。


白石由竹。

蜘蛛の糸を辿って、地獄から脱し王になった男


白石由竹は、出世してもやっぱり「脱獄王」のまんまだった。


完!

 

 

 


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*1:※変換できない漢字は■(読み仮名)で表現しています。