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トイストーリー4、大丈夫だから見てくれ

大丈夫だから見てみてほしい。勿論、強制はしないけれども、もしも「3までと別物」であるということを何処かで聞いて恐れているのなら、この記事を読んでからもう一度見るかどうか判断してみてほしい。

勇気を出して見る価値のある映画だから。


ちなみにこの記事は「トイストーリー3」までを鑑賞済という前提で書きます。
3まではがっつりネタバレがあるのでご承知おきください。
4についてのネタバレは恐怖心を晴らすため、冒頭や序盤に関しては若干踏み込んで説明しますが、ストーリーラインや結末はなるべく伏せています。参考にしていただければ幸いです。



おもちゃたちは捨てられていない

まず、これですね。
3までを見て「アンディはウッディを大好きだ」ということを知っている方は、後を託されたボニーがどのように振る舞うのか心配だと思うのですが……。
これはハッキリ言えます。

ボニーは、劇中で一度もウッディやおもちゃたちを捨てていないし、捨てる気もありません。
大好きなままです。

そう言えるのは、3までの文脈を4がちゃんと汲んでいるからです。

オモチャの愛情


3の悪役、ロッツォに対し、ウッディが言った言葉があります……。

<ウッディ>
デイジー……いつでも一緒だったんだろ?
<ロッツォ>
ああ…… で、オレたちを捨てた。
<ウッディ>
違う、なくしたんだ。

トイ・ストーリー3(日本語吹替)

「持ち主に捨てられた」と主張するロッツォに、ウッディが反論したんです。
捨てるのとなくすのは子供にとって全然違って、デイジーはオモチャのロッツォやビッグベビーが「大好きだったんだ」「オモチャの君をとても大切にしていたんだ」と……。
その証拠に、デイジーが自分の名前を書いてオモチャたちにつけておいた名札を突きつける。
アンディが靴の裏に書いてくれた文字と、同じ意味合いの愛情です。
拙くて、偶に汚したり、傷つけたりしてしまっても、なくしてしまったとしても、「自分の宝物をなくしたくない!」という愛情がそれにこもっている。

そして、その言葉を引き継ぎ補完するように、4の冒頭では「アンディが車のオモチャをなくしそうになった場面」が描かれます。

そうです。アンディでさえ、オモチャを無くしそうになるんです。だから実感をもってロッツォに反論をすることが出来た。ウッディは知っている。
アンディだってオモチャをなくすことはあるけど、それは「大切にしていないから」でも「嫌いになったから」でもないということ。「捨てる」なんてつもりはひとつもないんだってこと。

むしろ、逆ですよね。

だって、アンディは車のオモチャを外に持って行って、一緒に遊んでいたんですよ?
それは、そのオモチャが大好きだからです。楽しいからです。

ありませんか、誰でも。子供の頃、大好きなものだからこそ持ち歩いて、なくしてしまったこと。大好きだからこそ、ショックを受けてしまったこと……。
大切にしていないつもりなんてないし、いらなくなったわけでもない。嫌いになったからなくしたんじゃない。

そりゃ、家に置いて箱にしまっておけば「なくす」ってことはなかったかもしれません。本人以外からみたら、「持っていかなきゃいいじゃん」というものなのかもしれない。
でも、持っていきたかった。
だって、自分にとってはそれが、必要なことだから。
大好きだから。

大人は、大切にしなさいって怒るかもしれないけど、そうじゃない、そうじゃないんです。子供には、ちゃんとオモチャへの「大好き」な気持ちがある。大切に思っている。

それを知っているからオモチャたちは、いちいち「子供がオモチャをなくす」という事に怒りません。落としたり、忘れていったりされそうになってしまったら……ただ懸命にオモチャ同士、仲間同士で助けようとします。勿論、「オモチャをなくしてしまった悲しさ」を子供に与えないように……、という意味合いも込めて。
子供はオモチャをなくすけれども、なくしたくなんかないはずだ……。

彼らは「なくす」は「捨てる」とは全然違うんだ、とわかっているんです。

それがオモチャから子供への愛情です。
まだまだ拙い、子供の気持ちを慮ること。不安なら励まし、楽しみや喜びを分かち合い、悲しまないように助ける……。

だからこそ、「なくす」と「捨てる」を混同し憎しみに飲まれ、「子供への愛情」も「仲間への愛情」も捨ててしまったロッツォが、3のヴィランとなったのです。

そのヴィランと対立したウッディたちが持つ、愛情の根拠。アンディと過ごしてきた時間……。それが、4の冒頭「大好きなオモチャと遊んで、だからこそオモチャをなくしそうになったアンディ」の場面できっちり描かれています。

4も3の文脈を引き継いでいるよ、と示されているのが、ここでわかる。

オモチャの役割

「なくす」を話題に出したことで察した方もいるかもしれませんが……
確かに、ボニーが流れでオモチャをなくしそうになってしまう場面はあります。オモチャもそうですが、バッグも出かけた先に置いてきてしまったり……。
でも、捨てようとした訳じゃない。ちゃんと好きなんです。

だって、好きじゃなきゃお出かけに連れていきません。遊んだりしません。
ボニーは劇中序盤、キャンピングカーに乗って旅行に出発しますが、当然のように大好きなオモチャを持っていきます。
その中にウッディや、バズや、ジェシーたちもいる。何も、無理やりついていった訳じゃない。ボニーが自分で連れて行きたくて、そうしたんです。

ボニーは、初めて幼稚園に行くときも「オモチャと一緒がいい」と感じていましたが、親にダメだと言われて悲しい気持ちになります。

ボニーはオモチャが大好きなんです。そして、大好きのなかに、ウッディも、その仲間たちも入っている。
3までと同じように、足の裏にボニーの名前が書いてあるんですから……その気持ちはちゃんとあるんです。


でも、ウッディの視点で物語を追うと、どうしても寂しい気持ち、役割がなくなってしまったのではないかという不安が出てきます。

これはある種仕方のないことでして……ウッディは、「アンディの一番のお気に入り」だったからなんです。
ウッディがいないと、すぐにアンディは慌てたし、不安になった。その事をウッディは覚えています。

それでずっと「アンディの一番のお気に入り」としてどんな時もそばで支えよう助けようと考えてきて……同じようにボニーにも接しようとしてしまう。

ですが、ボニーはアンディではないんですね。当然ながら。
アンディとボニーは、オモチャに対するスタンスが違います。愛し方は似ているのだけど、確実に違う。

彼女は、オモチャひとつひとつに、その時ごとに「相応しい役柄」を与えるタイプなんです。

例えば、劇中序盤……ボニーは「帽子屋さんごっこ」をしていました。
そして、先ほども言いましたが旅行にもいきます。

この「ごっこ遊び」と「おでかけ」で、ボニーは「一緒に遊ぶオモチャ」の選出を、少し変えてるんです。

ミスター・プリックルパンツというハリネズミのオモチャがかなり解りやすいですね。

彼は描写や話ぶりからして頻繁にごっこ遊びのメンバーに選ばれているということがわかるのですが、旅行には連れていかれません。旅行中の車の中に、出てこないんです。

旅行のメンバーに選ばなかったからといって、ボニーはミスター・プリックルパンツを気に入っていないのでしょうか?大切に思っていないのでしょうか?


違いますよね。だって普段沢山一緒に遊んでいるんですから。


どうもボニーは、ごっこ遊びで遊ぶのに相応しいオモチャと、旅行につれていくオモチャ、というのを「気に入っているかどうか」ではなく、「そのオモチャに相応しいかどうか」で選んでいるようですね。

まるで、俳優をキャスティングする、映画監督のように。

映画の配役のオーディションに落ちたからと言って、その俳優の実力が劣っているとか、そういうことにはならないのと同じです。
ただ、その役柄と俳優の相性のマッチングなんですよ。

ごっこ遊びに選ばなかったから、旅行に連れていかなかったからといって、ボニーに必要ないとか、気に入られていないとか、そういうことにはならない。

何がどのオモチャに相応しいかっていうのは、その時のボニーの感性で決まるんですから。そして選ぼうが選ばなかろうが、オモチャたちが大好きという気持ちには変わりない。

ウッディはその感覚にイマイチ馴染めなくて、今現在「一番のお気に入り」ではないということに、どうしても空回りというか……寂しさを感じてしまうんです。

アンディと、ボニーを「違う」とわかっていても、ずっとそうして来たからつい……。

フォーキー

さて、4でウッディが特に気にかけているオモチャがひとつあります。

フォーキーです。

ウッディは、フォーキーこそが「ボニーにとって一番重要なオモチャ」だと思い、フォーキーがボニーの傍を離れないように注意を払うようになります。

おそらく、自分とアンディの関係と重ねて、どんなことをしてでも引き離しちゃいけないんだ感じているんですが……これは、半分正解で、半分不正解なんですね。

確かにフォーキーはボニーにとって重要なオモチャです。
不安なときの支え。その判断は間違っていません。

でも、ボニーがフォーキーに感じている「役柄」は、アンディがウッディに感じていたそれとは全く違う。

アンディにとってウッディは、頼もしい存在でしたよね。かっこいい台詞で登場するヒーロー。アンディが助けてほしいとき、一緒にいてくれる相棒。それがウッディ。余裕を見せて、勇気づけてくれる。

対してボニーはフォーキーとの関係をこう表現しています。

フォーキーは、私がいないとダメなの

トイストーリー4(日本語吹替)

そう、フォーキーは頼りになる訳じゃない。
弱いんです。

でもだからこそ、「私と同じで、1人じゃダメなんだ」と共感し、我が事のように「フォーキーを助けよう」と自分を奮い立たせ、ボニー自身が行動できるようになる。そういう存在なんです。

ですからボニーは、フォーキーの世話をやくつもりで、他のオモチャよりも優先してフォーキーに構います。

ここまで書けばお察しかと思うのでハッキリ書きますが、トイストーリー4の劇中には

『フォーキーがウッディよりも優先される描写』

が何度も出てきます。

でもそれは、ボニーにとってウッディが大切ではないとか、好きではないとか、そういうことでは決してありません。

ボニーにとってフォーキーは、ひとりぼっちで不安だった自分と同じ存在、弱くて寂しがりで、安心したいと願っている、放っておいたらいけない子供のようなものなんです。

そして実際、フォーキーはそういう性格です。
怖がりで子供で、自分と同じもの、仲間に囲まれて安心したがっている。
弱いところがあって……でも、本当は共感する優しさがある。

ボニーがそう思ったから、そういう性格になったのでしょう。
必要だったんです、ボニーにはそういう存在が。

ボニーの「不安なときの支え」となるための条件が、「ボニーの不安に共感する弱さ」であるなら……、確かに、ウッディはその役柄にはふさわしくありません。

ウッディは強くて頼もしく、友情を大切にするヒーローなんですから。

強いカウボーイで、勇気があるんだ。
優しいし、賢いし、でもウッディの一番すごいところは……
友達を見捨てないってとこ

トイストーリー3(日本語吹替)

ボニーは、ウッディがそういう強い存在だと知らされていました。他でもないアンディから、直接です。そうやって託されました。

だからウッディは「弱い役柄」にはキャスティングされません

ボニーは……「ウッディは実は弱いんだ!」という風に解釈を捻じ曲げたりはせず、フォーキーという新たなオモチャにその役柄を与えた、ということです。

だから、フォーキーは優先されます。そういう役だから。

これは本質的には……「スプーンをフォークとして使うのが難しい」というのと同じように、「それぞれに相応しい役割が存在する」、そういう話なのです。


ウッディの気持ち


……そうは言っても。悲しい気持ちになるのは避けられないとおもいます。

絵面や構図が、より「ショック」を大きくさせる演出になっているのも、確かです。

ボニーやボニーの両親から、ウッディが大切にされていないのではないかと感じさせる、そういう演出です。

でも、描写における事実をよくよく考えて見ると、ウッディは別に捨てられたり嫌われたりした訳では全然ありません。前述したように、ボニーは名前を書いて大切に思っているし、旅行に立って連れて行っている。
ボニーの父親がウッディを踏んづけてしまうシーンもありますが、それは偶然であってわざとではありません。
ウッディが踏まれかねない位置に自分から横たわってしまったという事情もあります。

でも、例え偶然であっても、ボニーにそんな気がなくっても。
繰り返し描かれるから……そういう、不安にさせる印象があるんですよね。
大切にされていない、もういらなくなっちゃったんじゃないかって。

どうしてそんな悲しい印象を持たせているのかというと、この寂しさ、物悲しさが「ウッディの気持ち」だからなんです。

3までを見ている視聴者が、アンディとウッディの関係と比べて悲しくなる気持ち。覚悟していても、胸が苦しくなると思います……。

でも、それこそが。

それこそが、
「アンディと過ごした時間をどうしても思い出してしまって、比べてしまって、ボニーに対してアンディのように思ってしまう、ウッディの気持ち」
なんです。

アンディは。アンディなら。アンディのときは。

そう思ってしまう。

比べてはいけないのに、ボニーはアンディではないのに。
わかっていますよ、ウッディだって。

でも感情は止められない。

ウッディは、強くて頼もしく、友情を大切にするヒーローですが、彼なりの不安や弱さだってあります。

「一番のお気に入りのオモチャだったのに、その持ち主から離れてしまった」

という立場。
ギャップによって現状をより深刻にとらえてしまう、ナイーブなところ。

これは……前作のヴィラン「ロッツォ」が感じていた悲しさと少し似ているかもしれません。

ウッディは自分の不安に戸惑うし、それによって焦って失敗したり、迷ったりします。
でも、最後までウッディはウッディの美点を「捨てる」ことはない。


ウッディは、アンディが解釈するウッディのままです。


ウッディは美点を失っていない


これは未視聴の方が対象の記事なので、あまり深入りした解釈はお話できませんが。

アンディの部屋からボニーの部屋に移ったことで、ウッディは「新入り」に分類されることになります。そこではオモチャたちの唯一のリーダーではなくなるし、前述したように、「唯一で一番のお気に入り」というわけではなくなります。

だから、今までと同じように振る舞おうとしてしまうウッディは少しから回っているようにも見えるし、寂しい気分にさせられたりもする。

でも、それでも。
ウッディは、矜持を捨てません。

ずっと大切にしてきた「子供に対する愛情」も、「仲間に対する愛情」も。
ウッディは絶対捨てません。

迷う姿を見せるから、そこに不安を感じてしまうということも、あるかもしれないけれど……そういう時は、「ロッツォ」を思い出して欲しい。


子供に対する愛情も、仲間に対する愛情も捨ててしまった存在とは、ロッツォのことなんです。
ウッディは彼のようになってしまったのか?
と問いかける。そうすれば、間違いなく「否」ですよ。

ウッディは不安にもなる、寂しさも感じるけれど、ロッツォのように憎しみに飲み込まれて周囲を不幸にしようという存在には決してなりません。
むしろ反対です。

「子供やオモチャたちに幸せを与える」という考えを、より発展させるんです。

途中では失敗もするけれど、それは1からずっとそう。
そして1からと同じように彼はちゃんと反省するし、みんなから好かれる存在のままなんです。

それだけは確かなことですので、未視聴の方は安心して欲しい。

オモチャとはなんなのか

トイストーリー4は、シリーズ4作目にして、「オモチャってなんなのだろう?」という根本的な問題に大胆に踏み込んだ意欲的な作品です。

そして、ネタバレになるので大部分は言えませんが、3までで描いてきた概念を4なりに丁寧に掬い取って描き、アンサーを示しています。

決して前作までの流れや、彼らが辿り着いた答えを蔑ろにはしていないと、筆者は考えています。

そのうち視聴済の方にも耐え得るような、もっと詳細な考察をかきたいですが……今回はこの辺にしておきます。

もしこの記事を読んで「4、みてみようかな……」と思ってくれたとしたら嬉しいです。

zara.hateblo.jp